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主の教えを愛する

 

2019年10月13日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「主の教えを愛する」詩編1編1ー6節     

 

 冒頭「いかに幸いなことか」とこの詩人は歌う。この言葉は、神の祝福に満たされた状態を称賛する感嘆の言葉である。この幸いは確固たる現実をさしており、神によって約束され、かつすでにそこに実現している幸いである。

 

 では、だれが幸いなのか、どんな人が幸いなのか。それが以下3節までに述べてある。「神に逆らう者」とは、ただ単に道徳的な善悪を問題にしているのではなく、神への服従か不服従か、神との関わりを問うている言い方である。そして、そのような者の計らいに従って「歩まず」であり、「とどまらず」、「座らず」である。動詞の否定形が使われている。それは逆に言うと、この世の中の現実は実に多くの「神に逆らう者の計らい」や「罪ある者の道」や「傲慢な者の席」があるということである。

 

 ここで詩人はそれらに「歩まず」「とどまらず」「座らず」という、態度、姿勢、選択、それが「幸いだ」と言う。そして、そのような人は「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」であると言うのである。この「主の教えを愛し」の「愛し」は「喜び」と言った方が元の意味に忠実である。だから、ここは「主の教えが私を喜ばせてくれる」である。この喜びこそ、恵みとして与えられているものである。主体は向こう側、主の教えにあることがよくわかる。

 

 そのことは次の3節を見ると、なおよくわかる。「幸いな人」を木にたとえている。流れのほとりに植えられた木が実を結ぶのは、木の功績、努力、その報酬でもない。生命の源である水にしっかりと結びついて、そこから生きる力を得ているからにほかならない。そのように、主の教えにしっかりと結びついている人は、自らの力や努力によらず、主の教えを通して与えられる力によって繁栄をもたらす。それが幸い。だから、主の教えを喜ぶのである。 

 

 しかしながら、もう一歩突きつめて考えたときに、果たして、現実の社会においてこのような幸いな人が存在し得たのであろうかという疑問である。12節に描かれているような人が存在しただろうかという疑問。我々人間は、皆45節に書かれているような存在ではないだろうか。少なくとも、主イエスに出会い、救われるまでの人生はそのようなものではなかったか。また旧約聖書に描かれる人物の中で、この人こそはと思う人はだれがいるだろうか。アブラハム?モーセ?ダビデ?確かに彼らは偉大な信仰者、指導者、王ではあったが、しかし、いずれも、一点の欠けもない義人であったとは聖書は語っていない。パウロも「義人はいない、ひとりもいない」(口語訳ロマ書3:10)と書いている。とすれば、私たちはこの詩篇をどのよう受け取ったらよいのか。

 

 宗教改革者ルターは、この幸いな人とはキリストを指す、と言っている。確かに聖書はキリストを指し示す神の言葉であって、私たちは聖書のどこにおいてもキリストを指し示され、キリストに出会うように導かれる。詩篇においても、私たちはキリストに出会わせられるが、ルターによれば、この詩篇の第1篇において、すでにキリストに出会うという。確かにここに描かれた幸いな義人は、イエス・キリストについてのみあてはまる。私たちは福音書や使徒たちの証言を通してそのことを知らされ、信じている。したがって、私たちは、この詩篇をルターにならって読みとることがゆるされるのではないか。

 

 とすると、ここにいう神に従う人とは、第一にキリストを指すことになる。だから、6節「神に従う人の道」とは、キリストにおいて示された道ということになる。キリストご自身も、二つの道を示され、狭い門から入れと言われた(マタイ7:13-14)。またご自身こそが「道」であると言われた(ヨハネ14:6)

 

 第二に、キリストを信じてキリストの道を歩む人が、神に従う人なのである。パウロが「キリストへの信仰によって義としていただく」(ガラテヤ2:16)と語っているのは、このことではないか。さらにパウロはキリストによって義とされて生きている自分のことを「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と告白している。私たちがこのような信仰に立って、この詩篇を味わうときに、この詩篇を自らの祈りとすることが出来るのではないだろうか。