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土の器に宝あり 道徳と福音の違い

 

2019年10月6日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「土の器に宝あり 道徳と福音の違い」コリントの信徒への手紙二 4章7ー15節

 

 「いのちはどこにある?」私が教員時代、生徒たちによく問いかけた問いである。それは「いのちって何だと思う?」と考えさせ、さらに「生きる」とか、「共に生きる」ということはどういうことかを考えさせるためであった。

 

 「君たちは、自分のいのちを持っている?」と問いかけると、生徒たちは「持っている」と答える。「じゃあ、どこに持っているの?」と聞くと、「身体全体」とか「心臓」とかいろいろな返事が返ってくる。しかし中学生ともなると、多くの生徒は黙り込んで考え始める。そこで、「じゃあ、心臓や身体がいのちなの?」と聞くと、生徒たちは「違う」と言う。心臓が止まれば人間は死んでしまう。それは確かだけれども、だからといって、心臓や身体がいのちなのかというとそのようには思われないと生徒たちは感じているのである。だから、考え込む生徒も多く出るのである。

 

 さあ、そこで次のような突っ込みを入れる。「風は見ることができますか?空気は見えますか?見えませんね。でも、確かにそこにあって、人間が生きていく上で欠かせないものですね。いのちも目で見ることはできないけれども、確かに存在するものです。見えないもののなかにとても大切なものがあるんだよ」と言って結ぶ。そして「聖書という本にこういう言葉があるよ」と紹介する。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(第二コリント4章18節)。 

 

 そしてさらに問いかける。「君たちにとって、いのちと同じように、目に見えないけれど、確かに存在するし、大切なものって、ある?」。生徒たちは「友情」とか「愛」とか「感動」「こころ」などという言葉を返してくる。そこで、「じゃあ、その目に見えないけど大切な友情とか愛は、どうやって示すの?また、どんなことが友情や愛の行為なの?」。もう生徒たちは気づき始めている。「人の嫌がることをしない」「相手の喜ぶことをする」「励ましたり声をかけたりしてあげる」。私はただうなずいて、「そうだね」と言うだけ。

 

 しかし、さらに別の角度から突っ込む。「今、日本人の出生率はどのくらいか知ってる?」。正確には合計特殊出生率といって、出生可能な年齢層のなかで何人の子どもが生まれるかということなのだが、生徒たちはほとんど知らない。そこで「じゃあ、君たちの兄弟は何人?その辺から考えてみたら」と問うと、「2,3人かな」と言う子や、「1.5人」という生徒もいる。「正解は1.4」(20年以上前の話)と言うと、みんな変に納得した顔をする。少子化はすでにその頃の子どもたちは実感していたのだろう。「それでは、次の質問。日本人の死亡率は、上がっているか下がっているか?」。「上がっている」と多くの生徒の声。高齢化社会をイメージしているのだろう。「残念でした。日本人の死亡率は、昔から100パーセントでした。みんな死にます」。生徒たちは「引っかけ問題だ!」ともう大騒ぎ。さあ、これからが肝心なところ。「そう、私たちは親や周りの人たちから大事にされて生まれ、育てられてきた。しかし必ずみんな死ぬ」。生徒たちはシーンと静かになる。「その間の人生をどう生きるか?って考えることは、とても大事だと思うよ」と投げ掛けていく。

 

自分が持っている時間、自分が使える時間が「いのち」そのものであって、その時間をどう使うかが私たち一人ひとりに与えられた課題であると話す。与えられたいのち(時間)をどう生き、どのように返すか、それを真剣に考え、そして一日一日を精一杯生きていくことが大切であることを話して、「いのち」を生きる授業は終る。生徒に問いかけ、考えさせる。考えることが生きることでもあるだろう。

 

さて、聖書では、「いのち」「生きる」ということについてどのように言っているか。実に様々な物語、出来事、教え、祈りなどを通して語られている。そこで、今日は第二コリント4715節から見ていきたい。7節に「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」とある。「キリストの内住」といわれる御言葉である。これは何か神秘的な体験ではない。キリストの内住とは、キリストが支配する自分になることである。自分は自分の主人公であるから、誰でも自分だけは人に明け渡したくない気持ちがある。しかし、このような自分をキリストに明け渡すとき、はじめてキリストが私たちの中に住んでくださるのである。何もこのようなことは特別なことではない。人間社会でもよくあることだ。例えば、これからはこの人についていこう、この人に命を預けるつもりで頑張ろうといって、その人の言動を見習いながら修行したり仕事を覚えていったりということがある。その人に人生をかける、命を預ける、そのようにして生き、成長していった芸人やアスリート、職人などいくらもいる。

 

「宝を土の器に納めている」、素晴らしい言葉、まさに福音。しかし、私たちは、とかくこの土の器の方を問題にしやすい。人は器を嘆く。こんな不幸な人生はない、これでは嫌だと。しかし、問題は器ではなく、その中身なのである。大事なことは、その中に何が入っているかだ。高価な器でも、中に泥水が入っていたらだめだ。失望したり、立ち止まったり、ひがんだりする必要はない。触れれば壊れるような土の器であっても、そこにキリストという宝があるなら、素晴らしい人生になると聖書はわたしたちに語っている。8節「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」とある。なぜだろうか。

 

 パウロは7節で続けて「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」と付け加えている。「この並外れて偉大な力」とは「神の力」。ギリシャ語でダイナマイトの語源でもあるデュナミスという。爆発的な力。並外れて偉大な力。宝はそれを持っている。その宝のことを10節では「イエスの命がこの体に現れる」とか、12節「あなたがたの内には命が働いている」、13節「信仰の霊を持っている」と表現している。いずれにしても「わたしたちから出たものでない」、神から与えられた恵み、それを宝と言い、命と言い、信仰の霊といっている。

 

「宝を土の器に納めている者」、信仰を持っている者は、何があろうと躓かない、七転び八起きの人生を送ることができるといった、将来の安心保証を約束しているわけではない。人生には困難、試練、悲しみなどいろいろある。あるけれども、あれほどの困難な事があったのに、気が付けば乗り越えている自分がいるではないか、とパウロはあらためて自分を振り返っているのである。それはなぜか、キリストの死と命が私たち土の器である体によって現れるからである。「虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。これこそ本物の信仰者の強さである。これが福音。