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福音を恥としない

 

2019年9月29日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「福音を恥としない」ローマの信徒への手紙1章16ー17節     

 

パウロはなぜ「福音を誇る」と言わず、「恥としない」と語ったのだろうか。「恥」という否定的な事柄を「しない」という否定表現(二重否定と言って、事柄を強調)の中に、パウロの福音にしっかりと立ち、そこから一歩も退くことのない信仰的な決意を見ることができる。しかし、それは同時に福音に逆らい、福音に耳を貸そうとしない世界や社会、福音を憎み、恥じる人々に対するパウロの挑戦的、告白的表現とも言える。

 

 では、なぜパウロは福音を恥としないと公言できたのだろうか。それは16節の後半「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ」と確信していたからにほかならない。人間の目には愚かと見える福音こそが「信じる者に、救いを得させる神の力」なのだと。

 

 では、「救い」とはなにか、どんなことか。聖書の語る救い、そして人類にイエス・キリストによってもたらされた「救い」とはどのようなものなのか。救いとは第一に「過去」からの救いである。人はだれでも心の中に犯した罪の痛みを持っている。その過去の罪をイエスは十字架でご自分の身に負って下さって、精算して下さった。チャラにして下さった。もう負債がなくなって、せいせいさせて下さったということである。そのことを「赦された」と過去形で言うことがある。

 

 第二は「未来」の救いである。それは人が死ねばどこに行くのか、との問いに答える。イエスの救いを受け入れる者は、永遠に至る命が約束されている。

 

 そして、その過去と未来に挟まれて「現在」の救いがある。これが第三の救い。共にいて下さるイエスが祈りの中で、またみ言葉の中で私たちにいつも語りかけ、私たちの歩む道を示し、またその道を照らして下さる。

 

 第四は、「関係の回復による救い」である。イエスと共に歩む時、また神を神としてあがめる時、神と人との関係が正しくされる時、私たちは与えられている命の意味が分かる。そして、そのことが自分と他者との関係を正してくれる。イエス・キリストの語られる救い、それは個人にとどまらず、あなたのまわりを、そして世界をも変革する力ともなる。まさに「神の力」である。

 

 神の力の「力」はダイナマイトの語源デュナミスという。神の力はユダヤ人、ギリシア人を問わず、すべて信じる者の内に働いて爆発し、罪と汚れを打ち破り、新しい者へと造り替えて下さる。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者」(第二コリント5:17)

 

 さらにパウロは福音の中に「神の義」が啓示されているという。「啓示」とは開き示すという意味。だから、福音の中に「神の義」が開かれて示されているというのである。福音とは信じる者すべてに救いをもたらす神の力であるが、その働きの中で神がどういう方であるのかということが我々にわかるように開いて示されているというのである。 

 

例えば、あなたが何か悪いことをした時にお母さんがそのことを悪いと教えてくれ、叱ってくれた。またある時は何か失敗をして落ち込んでいた時に、お母さんがそんなことでくよくよしなさんな、今度頑張ればいいよと慰めてくれた。そんなお母さんの働きかけの中に、お母さんがどんな人であるかが示されている。お母さんは私を愛してくれているし、優しい人だということがその働きかけの中に示されている。それと同じように神が私たち信じる者を救って下さるという行為、働き、意志の中に、神がどういう方であるかがわかる。そのことを「福音には、神の義が啓示されている」というのである。

 

 では、神とはどういうお方なのだろうか。「神の義」というのだから、神は「義」なる方である。神は正しい方であり、公正な方である。それはどこで示されているのだろうか。ユダヤ人は律法において神の義が示されていると信じている。だから、律法を遵守することで義認されると考えていた。しかし、人間がどんなに努力精進を重ねても神の要求を完全に満たすことなどできるはずはない。律法を行うことで神の義に到達することができるというのを「律法主義」というが、その「律法主義」は結局、絶望を生み出すか、偽善に人を走らせるほかない。

 

 しかし、今や全く新たな意味を持って「神の義」が現されたのである。それはイエス・キリストによってである。イエス・キリストを信じる信仰によってである。イエス・キリストを信じる信仰によって、神との正しい関係が回復される。それは、人間の行為によってではなく、神がご自分の愛する独り子イエス・キリストを私たちの罪のあがないの供え物とされるという、神自らの行為、働き、意志によって、私たち信じる者が義とされたのだ。正しいとされた、よしとされた。だから、そのことは「初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」ということになる。別の訳だと「信仰に始まり信仰に至らせる」。「信仰に始まり信仰に至らせ」て下さるのは神である。私たちの信仰自体が神の恵みである。だから、人間の力にすり替えられるようなものではない。

 

 「行いによらず、信仰によって義とされる(救われる)」と聖書は繰り返し語っている。誇り得るものは人には何もない。だから、「誇る者は主を誇るべき」(第Ⅰコリント1:31第二コリント10:17)。主のみが讃えられねばならない。

 

 パウロは「福音を恥としない」と言ったが、それは「福音を誇る」ことであった。福音は人間に真の生き方を得させる神の力である。そして、神の示される人間の真の生き方は、その福音の中に啓示されている。その福音は神の真実、神の愛によって始まり、それに応える我々人間の信仰にまで至らせる、導いて下さるのである。

 

 パウロはこの福音を当時のギリシア・ローマの世界に伝えていった。ユダヤ人のみならず、ギリシア人にもローマ人にも伝え、新たにしていった。こうしてこの世界を新たにする福音は全世界へと宣べ伝えられていくことになった。その働きは、今日に至るまで二千年の間続いている。私たちも福音を恥じないパウロの姿勢から励まされて、福音を宣べ伝える働きへと押し出されていきたいと願うものである。