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一匹を大事にする羊飼い

 

2019年9月22日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「一匹を大事にする羊飼い」マタイによる福音書18章10-14節

 

 イエス様のたとえ話には、パレスチナでの自然や日常生活でのありふれた材料がたくさん取り入れられている。羊やぶどうといったものは、神とイスラエルとの関係を示すイメージとして旧約聖書の中でよく知られている。特に羊飼いと羊のイメージについては、神とイスラエルの民との関係を示すイメージとしてしばしば用いられている。羊がイスラエルの民であり、そのイスラエルの民を導くのが羊飼いである神様である。その最も代表的なものは、詩篇23篇のダビデの歌であろう。このダビデの歌は、羊飼いである神に対して全幅の信頼を寄せる羊の歌である。

 

 1213節のイエス様の話されたたとえ自体は、一匹の羊が自分の欲に引きずられて、こっちのほうが緑がいいから一人で食べようとか、あっちの水を一人で楽しんでいようとか、そのような自分の欲に引きずられて、結局迷ってしまった羊をそれはおまえが悪いのであって、迷ったのは自業自得だ、自己責任だ、だからおまえみたいなのは、どこかでのたれ死んでしまえばいいのだと、羊飼いは決してそういうことは言わない。たとえ迷った責任が羊のほうにあったとしても、その羊飼いはそんなことを責めるのではなくて、まず迷った羊をかわいそうに思い、どこまででも探していくのだという、端的にそういったたとえ話である。

 

 ここでいう「迷い出た羊」とは「小さな者」である。助けや救いを最も必要としている人々である。また「迷い出る」とは、信仰につまずくことである。だから「迷い出た羊」とは信仰や教会につまずいて離れていった人たちでもある。このような小さな者、弱い者をどこまでも探し求めておられるのがイエス様である。

 

 だから、人生において迷い込んでしまってどうしようもなくなっている人にとって、迷える羊を一生懸命追い求めて名前を呼んでいる羊飼いの声、イエス様の招きは心に響く福音となるのである。 人々から理解されないようなときでも、あるいは、人々の慰めが得られないようなときでも、そして、人々と別れなければならなくなる死の床にあっても、必ずいつもイエス様は語りかけ、招いて下さる。まずその招きに応えよう。その愛の恵みを受け取ろう。心の耳で聞きとろう。そして感謝しよう。

 

 ところで、今日の聖書の箇所のメッセージはこれで終わりではない。もう一つある。それは弟子たちに警告し、問うことによって教えていることである。10節で「小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」とイエス様は弟子たちに警告している。そしてさらに12節の冒頭で「あなた方はどう思うか。」といって弟子たちに問うておられる。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」「当然行くでしょう」が省略されている。このことはなにも弟子たちだけの問題ではない。私たち自身の問題であり、私たち自身への問いかけでもある。

 

 このような警告や問いかけをする中で、次のような教えが含まれている。価値のある人、非常に地位のある人、あるいは学識のある人、そういう価値を豊かに持っている人はどこでも、特にいわなくても非常に大切にされる。けれども、価値を失ったような、色あせたような人、そういう小さな人たちはややもするとこの世から敬遠され、軽んじられる。しかし、そういう小さな人たちこそ大切にするのがイエス様に従う者の使命であると教えておられる。だから、みすぼらしい、価値を失ってしまって、とぼとぼと一人寂しく歩いているような人たちを軽んじたり、何となくみんなと一緒についていけないような人たちを振り落としていくような姿勢はとんでもないことなのだというわけである。

 

 だとすると、皆を手こずらせて、いつも迷いやすいような、そんなものは一匹ぐらいどうでもいい。九十九匹のほうが大切だというようなそういう発想というのは出てこないだろうというわけである。逆に考えると、当時そのような考えや、行いがあったということではないだろうか。そして、それは二千年前のこと、弟子たちだけのことではなくて、それは私たちに今問われていることでもある。 

 

 イエス様はこれら小さい者の一人でも失われることを望まれない。一人の命のかけがえのなさと全体から疎外された一人をこそ徹底的に求めるイエス様の愛がここに示されている。それはイエス様の十字架の上に示されている。私たちは十字架上での罪赦された者である。イエス様の愛の恵みを受けた者である。この罪の赦し、愛されていることの実感を今、我々がどのように受け取り、またどのように隣人と分かち合っていくのかが問われているのである。罪赦されている、愛されている現在を真剣にそして誠実に受け取る生き方こそがその方向を決める。イエス様の愛の恵みに応えて、迷える羊を捜しに行こう。あなたの隣の空いた席はいるべき人の席なのだから。