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一緒に喜んでください

 

2019年9月15日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「一緒に喜んでください」 ルカによる福音書15章1~7節

 

 今朝の聖書の箇所で、主イエスは、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(4)と言われた。そして、「『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(6節)と言われた。

 

 この喩えで主イエスは、神について語った。しかしここでは「神に関心を持ち、神に心を向けよ」とは語っていない。少なくともここではそのことが主題ではない。逆に神の方があなたに関心を持っていると語られている。一匹の羊は見失われたままであって、自分の方からは少しも羊飼いを探しはしない。人間も同じ。神から離れていく。神に対する関心を持っていない。あるいはかつては持っていたが、今はなくしている。しかし、神はその人に関心を向けている。神はその人に興味を持っていると、主イエスは言われるのである。とすると、私たち人間に必要なのは、私たちは神から関心を注がれているという発見ではないだろうか。

 

 聖書を読むと、今朝のこのたとえがどういう場所で語られたかが記されている。1節を見ると、そこには「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」とある。徴税人や罪人というのは、当時の社会で嫌われ軽蔑されていた人々であった。彼らは律法を守っていない。皆と共同の信仰生活が出来ていない。金銭問題やその他、道徳的な生活でも不正に汚れた生活を送っていた。少なくともそういう疑いが多分にかけられて仕方のない人々であった。その人たちが主イエスの所に来たのである。2節で「ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」とある。主イエスがこういう人々を迎えているのは、正義に反するではないか。神の聖なる御旨をないがしろにしている。何もかもいっしょくたくにして、善と悪とを逆にして社会の秩序を壊しているという不平である。「食事まで一緒にしている」。神の民としてのイスラエルの誇りをひどく傷つけられたファリサイ派や律法学者たちの怒りの声が聞こえてくるようだ。

 

 しかしそれにしてもなぜ、「徴税人たちや罪人が皆」、話を聞こうとして主イエスのところに近寄って来たのだろうか。この人々が近づいて来たのは、ファリサイ派の人たちが言うようにその根拠は主イエスにあった。主イエスが彼らを「迎えた」からである。主イエスに迎えられたので、彼らは近寄ったのだ。主イエスのたとえの表現で言えば、羊飼いである方ご自身が彼らを探し、見つけ出したのである。そして喜んで下さいと言って人々を呼び集めた、その喜びの食事が今なされているというのである。だから当然、「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」ということになるのである。それはイエスにとっては喜びの食事だった。

 

 主イエスが罪人を招き、探し、見つける。そこに「神が羊飼いでいて下さる」ということが現れている。主イエスの前代未聞の振る舞いを通して、神が赦しの神であり、神の関心が罪ある人たちに向けられていることが示されたのである。「見失った1匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか」と主イエスは言われた。神はそのようなお方だというのである。そして主イエスご自身が「見失った1匹を見つけ出すまで探し回る」、そのためにこそ遣わされてきた神の子なのである。主イエスは、見失った1匹を探すために来られた方である。

 

 羊飼いである神はどこまで探し回るのだろうか。それは見つけ出すまでである。一体どこで神は私たちを見つけ出して下さったのだろうか。それはあの主イエスの十字架の上でではないだろうか。あそこで、主イエスは私たちの罪を代わって負われたのである。その主イエスの代理によって、私たちは赦されたのである。そして神の民の中に受け入れられ、キリストのものとして見つけ出されたのである。主の十字架は私たちが見つけ出された発見場所である。

 

 見失われた人をこそ探す神。神の人間への関心。しかも「無に等しい者」となった者に対する神の愛。それがキリストの十字架の中に激しく表現されている。キリストの十字架の中で見つけ出すまで、どこまでも探して下さる神が、主の十字架の中に示されている。