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友と呼んでくださるイエス様

 

2019年9月8日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「友と呼んでくださるイエスさま」ヨハネ福音書15章11~17節

 

 「あなたは誰か」と問われたら何と答えるか。誰から問われているのか、どのような状況の中で問われているかによって、答えがいろいろ考えられるだろう。例えば、学校の先生であれば、生徒の前では教師。男性で結婚して子どもが生まれれば父親、孫の前ではおじいちゃん。そしてお店へ行けばお客さん。というように何者であるかは関係性の中で規定されていく。関係性など関係なく、「私はわたしだ」と言っても、では「何が私なのか」と問い返されると返答に詰まってしまうだろう。なんらかの自己証明をしなければならない。自己証明を英語でアイデンティティという。別の訳で自己同一性とも、主体性とも訳される。本当の自分や、自分が自分であることの確信を持つことである。しかし、これがなかなか難しい。おかしな話だが、たとえば役所や銀行などに行って、「私は○○です」と氏名を名乗っても相手にされない。本人が言っているのだから、これほど確かなことはないのだが、通用しない。自己証明するために、身分を証明する運転免許証かパスポートなどの提示を求められる。第三者からの証明。

 

何が言いたいのかというと、私たちは関係性の中で生きているということである。第三者による証明であったり、他者との人間関係の中で自分が何者であるかを示されるということである。そしてそのような関係性の中で示された自分をそのようになっていくように生きていく存在であるということである。たとえば、教師であっても初めから教師ではない。生徒との出会いがあり、教師としての務めを一生懸命やって、生徒との信頼関係ができて初めて教師となっていくのである。結婚して子どもが生まれて父親になるわけではない。子どもに対して父親としての役割をしっかり果たして初めて父親となっていくのである。そんなの関係ないと言って、私はどこでも私だと言っているだけでは、何者にもなれない。ただのわがまま、自分勝手な、だれからも信頼されない存在でしかない。そんなのは主体性でも何でもない。

 

 前置きが長くなってしまったが、ヨハネによる福音書15章では、「あなたがたは……である」という主イエスの言葉によって、「私たちは誰であるのか、何者であるのか」が明確に告げられている。そこで、私自身が誰であるのかを知るならば、そして受け入れて、そのように生きるならば、実り多き人生を生きるようになると約束されている。

 

「あなたがたはその枝である」と主イエスは言われる。そして大事なことだが「わたし(主イエス)」と「あなたがた」は「つながっている」関係だと言われるのである。つまり、私たちは、イエス・キリストの中に深く根をおろした存在にほかならないというのである。

 

先ほどの人間関係で言うならば、「つながっている」ということは「信頼する、される」という関係である。運転免許証が私にとっても相手にとっても信頼があるから通用するのである。生徒が信頼するから教師でおられるのである。いくら私は教師だと言っても、信頼を失えば、だれも話を聞いてくれない。いくら私はお前の父親だと言っても、ちっとも父親らしいことをしなければ、そのうち、子どもから「あんたなんか親でも父親でもない」と言って捨てられるだけであろう。キリストにつながっていなければ、捨てられる(6)とある通りである。

 

 さらに、8節で「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら」とあるように「私たちはキリストの弟子です」と応答することによって、自分が何者であるかを確認することが出来る。そしてキリストの弟子であるように生きる存在となっていくのである。

 

 さらに驚くべき言葉を私たちは聞かされる。14節「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」。「あなたは誰ですか」。「わたしはキリストの友です」。そのように答えることが出来るのである。何と驚くべきことであろう。そしてキリストの友として生きる存在として生きることが許されるのである。そのようにしてキリストの友となっていくのである。

 

 先程から、○○として生きる存在として生きることによって、○○になっていく、と繰り返した。ぶどうの枝になっていく、そのためにはつながっていなければならない。ぶどうの木であるイエス・キリストに全き信頼をおいて生きていくということである。そうすると豊かな実を結ぶと言われる。豊かな人生を歩むというのである。キリストの弟子となっていく。キリストの弟子として生きる。それは父の掟を守る。神を愛し、隣人を愛するということ。キリストの友として生きる。それは、互いに愛し合いなさいとイエスが言われる、愛する人生を生きるということ。まとめると、イエス・キリストに信頼し、神を愛し隣人を愛していく人生を生きる中で、実を結ぶ枝となっていく、キリストの弟子となっていく、キリストの友となっていくのである。そこに豊かな人生が待っている。