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信仰・希望・愛

 

2019年9月1日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「信仰・希望・愛」Ⅰコリント13章1~13節

 

 「愛の賛歌」と呼ばれる13章は三つの部分に分かれている。13節には愛の必要性。47節では愛の特質。813節では愛の不滅性が語られている。

 

 まず、13節だが、「たとえ……しようとも、愛がなければ……である」という言い方で、三つの文が並んでいる。1節は、あらゆる種類の優れた異言を語ることが出来ても、愛がなければ、そうぞうしくかえって迷惑なだけである、という。2節は、預言の力やあらゆる奥義と知識を極める洞察力、山を移すほどの奇跡的信仰も、愛がなければ、それらのいっさいがゼロに等しい、という。3節は、全財産をささげ、からだを焼かれる殉教の死を遂げても、愛がなければ、すべては無益である、という。なぜなら、そこには必ず利己心と虚栄心とがからみついているからである。

 

 しかし、誤解してはいけない。パウロはこれらもの(異言、預言、知識、信仰、教え、奉仕、殉教)を単純に軽んじて否定しているのではない。ただ愛が伴わないなら、それらのものは空しくなると言っているのだ。愛が必要条件であるというのである。信仰も知識も教えも奉仕も否定されるものではなく、価値あるものであるが、それが愛において全うされる、完全にされると言っているのである。

 

では、その愛とはなんであるかだが、二つ目の部分、47節、ここに愛の特質、愛とはどのようなものであるかが述べられている。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。……」。このような書き方に二つの特徴がある。そして、そこから愛の特質を理解することができる。一つは主語が「愛」であると言うこと。もう一つは主語である「愛」が擬人法で表現されていることだ。「神は愛である」(第一ヨハネ47以下参照)ので、主語の「愛」のところを「神」と読みかえてみることができる。「神は忍耐強い。神は情け深い。……」。ここには「神は愛である」と言うメッセージが隠されている。

 

 もう一つ、擬人法で語られているということは愛は生きて働くもの、愛はもっぱら行動に即してのみ語られるということを意味している。ここでは、動詞が15も使われている。すなわち、愛は行為であり、その行為は愛の働きであるということ。そして、行為の主体は愛である。すなわち神である。神ご自身が働かれるのである。本質的に愛である神が、愛の行為をされるのだ。そして、そのことが何であるかが我々に知られるのは、究極的にはキリストの十字架である。キリストの愛は自己を犠牲の供え物とし、献身し、仕える愛であるということである。神の愛はキリストの愛であり、十字架の愛であるというメッセージがここにある。

 

 最後の三つ目の部分は、愛の不滅性である。「愛は決して滅びない。」 愛のみは不滅であるというのだ。先ほど愛を神と読み替えてみたが、同じようにすると、「神は決して滅びない」となる。神の永遠性、不滅性を言っているわけだ。他方、造られたもの、そこから出るもの、花は散り、木の葉が落ちるように諸々の霊の賜物、預言や異言や知識は廃れるであろうというのだ。なぜなら、「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから」である。不完全であり、相対的であり、部分的だからである。だから10節「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れ」るのである。「そのとき」とは「完全なものが来たとき」であり、それはこの世と歴史の終末の日、キリストが再臨し、栄光の神の国が現れる時である。その時、部分的なものは完全なものの前では不必要である。鏡で見るように間接的にしか見ることの出来ないものは、その時、直接的に「顔と顔とを合わせて見ることになる」時、必要ではないのである。

 

 ここでパウロは終末の待望の信仰から語っている。終末はまだ来ていない。それゆえ、終末が来るまでの間存続し続けるものがここで提示される。「信仰と希望と愛」である。この三つは、キリストに愛され、生かされ、新しくされた信仰者のあり方、生き方を示している。私たちの信仰は神の義と結びつき、そこに救いの唯一の根源を求める。そして、そこから来たるべき神の国を待ち望む。さらに、神の愛を通して現実の生活を生きるのである。

 

 パウロは、これら三つのもののうち愛をさらにその上位におくことによって、愛がすべてのものの基礎にあること、愛はすべてを完全に結ぶ帯であること(コロサイ314)、最高の道であることを主張している。私たちの人生がキリストの愛の基盤の上にあり、キリストの愛に結ばれているとき、私たちはそのような愛に生きる者として生かされていく。

 

私たちが4節以下にあるようなことが出来るとか出来ないとかそんなことをパウロは言っていない。愛の主体はあくまで神であり、キリストである。私たちに問われるのはそのキリストの愛の支配と力に満たされているかが問われるのだ。教会の中心にキリストがおられるのかが問われるのだ。教会のかしらであり、からだであるイエス・キリストに一人ひとりがつながっているかが問われているのだ。先ほどコロサイ314「愛はすべてを完全に結ぶ帯である」と引用したが、要はキリストの愛につながっているか、ということだ。しっかりとキリストに結びつこう。キリストの愛にまったき信頼をおこう。キリストの愛に結ばれ、支えられ、そして導かれて、豊かな恵みの人生を歩もう。