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神の愛の業に生きる

 

2019年8月25日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「神の愛の業に生きる」 ヨハネによる福音書9章1~12(新共同訳)

 

 「生まれつき目の見えない人」は主イエスの言葉に素直に従って、治療を受ける。そして、この男は自分の身に起こったことは否定できないから、その事実をそのまま受け入れている。しかし、この男は12節にあるように近所の人々が「その人はどこにいるのか」と質問をすると「知りません」と答えるのである。この男は自分を癒してくれた、その恩人に対して「知りません」というのである。これが癒してくれた人に対する態度だろうか。この男は自分の救いに有頂天になっていて、彼を癒してくれた人の方へは視点がいってない。さらに、主イエスに興味・関心がないばかりか、この男は多分この自分を癒してくれたイエスという人物がどんな人であるのか理解できていないようである。しかし、あとになって(38節)、この男は「主よ、信じます」といってひざまずいて主を礼拝するが、この時点では分かっていない。

 

 このことは次のことを意味しているのではないか。それは、この男が主イエスを信じたから癒されたのではないということ。自分の罪を悔い改めて、主イエスを主と信じたから癒されたということではないということ。逆の言い方をすると、この男は癒されたから、主イエスを信じるようになったというのでもない。信じたら癒される、癒されたら信じる。こういう信仰を御利益信仰というが、少なくとも、この男はそのような御利益信仰は持ち合わせていなかった。幸いなことに御利益信仰は持ち合わせていなかったけれども、主イエスが何者であるか分からなかった。いや、癒されたことに関心がいって、癒してくれた主イエスのほうに関心がいってない。自分のことでいっぱい、自己中心。

 

 では、この出来事、癒しの業は何を意味しているのか。それは、主イエスの無償の愛の業が一方的に起こるということだ。私たち人間の側の努力、善い行い、反省、悔い改め、徳を積むといったこととはまったく関係なしに、また罪を起こしたからとか身体的に弱いからとか、とにかくまったく関係なしに、無条件にそのことは起こるのである。

 

 そのことを主イエスは3節で宣言されている。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。これは驚くべき宣言である。弟子たちが律法を前提としたような因果応報の考えを否定する。そして新しい教えを示される。ここで問われていることは原因ではなくて目的である。目的へと向かう神の意志である。この意志が表された行為が愛の業であり、赦しであり、共に重荷を負ってくださる神の働きである。このような業のしるしとして癒しがあるのである。そして、そのことは、すでに神の起こされる一方的な出来事の内に私たちはいる、入れられているということを意味しないか。この男と同じように。

 

 しかし、残念ながら私たち罪ある人間にはそのことがよく見えない、受け入れがたい、理解しがたいということをも言い表しているのではないか。この癒された男と同じように。この後、出てくるファリサイ派に人々と同じように。このことに気づかされたのは次の4節を読んだ時である。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る」。「私たちは」とある。「わたしたち」?これでは前後の文脈からいって、すーと入ってこない。これは主イエスの言葉ではないか。だから、主イエスが「わたしは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る」と言ってもらわないと困るし、次の5節「わたしは、世にいる間、世の光である」ともつながらないではないかと考えたのである。でも「私たちは」である。

 

 これをどう考えたらよいのだろうか。私は、これは招きの言葉ではないかと解釈した。弟子たちや近所の人たちのように、他人事のようにして失礼な質問をし、理解できないことは疑い、疑うばかりか排除してしまう私を主イエスは「私を遣わして下さった神様のわざの中に、あなたも加わったらいいではないか。」と招いて下さっている。あなたはこの弟子たちや近所の人々や癒された男を非難めいて言っているけれど、因果関係が何だ、御利益信仰が何だ。問題はそういうことではないだろう。この男に神のわざが起こり、ともに喜びの輪の中に入ったらいいではないか。そのわざのためにともに働こうではないか。そう呼びかけられているのではないかと解釈したのである。

 

 そして、その時その招きに応じようとしない自分を見たのである。私はまだ闇の中にいることを知らされたのである。闇の中にいるから、見えない。いや、見えると思っているが、光の中にいないから見えないのである。しかし、主イエスは「私は世の光である」と言われる。世の光である主イエスの呼びかけに応ずるとき、初めて私たちは見えてくるのではないだろうか。私たちがいまだ闇の中にいるのに、目が見えていないのに、すでに主イエスは私たちを呼びだして下さっている。

 

 闇から光の中へ立たして下さるということ、見えない者から見える者へと変えて下さるということが、あの男のいやしのわざだったのだ。「神の業が現れるため」だったのだ。私たちはこの主イエスの愛の業に生きるようにとの招きに答えつつ歩む者になりたいと願う者である。