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すでにといまだの緊張感

 

2019年8月18日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治                  

 

「すでにといまだの緊張感」フィリピの信徒への手紙3章7~12節

 

 今日の聖書箇所を「既にといまだ」という観点からみてみたいと思う。

 

 パウロはこの378節で、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と書いている。これは「既に」である。「いまだ」ではない。

 

 次に、8節の終わりから9節にかけて、「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」とあるが、「認められるため」とあるから、「いまだ」である。このように、パウロは既に得たのではない、いまだ私は途上にある存在なのだということを語っている。しかし、さらに次を読んでいくと、同じ9節に「私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と語っている。これは「既に」である。つまり、私たちは信仰によって義とされているという「既に」ということを「いまだ」ということとの緊張の中で、パウロは語るわけである。

 

 さらに次を見ていくと、1011節に「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とある。これは「いまだ」である。

 

次の12節はどうか。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と書いている。ここでは、「既にといまだ」の二つのことが語られている。「既に」にあたるところは後半の部分「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」というところ。私たちが自分で捉えていくようであるけれども、実際には神によって既に捉えられているというその事実、神の業、神の救いのみ業がまずあるのである。すなわち、パウロにとっては、それはダマスコ途上での、過去のある時点での一回的な出来事であったわけである。一方、「何とかして捕らえようと努めているのです」と言っている。ここは「いまだ」である。この言葉は、明らかに来るべき時を目指す意味を持っている。終末待望の姿勢である。「いまだ」である。

 

 さて今、7節から見てきたように、パウロはここでキリストの死と復活による救いの出来事が「既に」開始された「救済の時」と、キリストの再臨によって来るべき「いまだ」の「完成の時」と、この二つの時の間に今の自分は生きているのだとここで明らかにしている。

 

 このようにパウロも言っているように「救済の時」、言い換えて「救いの業」は既に始まっているのである。神の赦し、神の愛は既に現実のものとして、私たちのもとにある。しかし、一方で現実的にある、その既にそうであるものに私たちがなっていくという、そのようなプロセスがある。それこそが私たちキリスト者の歩んでいくプロセスではないかと思う。

 

 信仰生活はその二つの間の緊張の中にあるものではないか。神の赦し、神の愛は既に現実のものとして、私たちのもとにある。だから手応えがあるし、「そうか、分かった」となるわけである。これを一言で言うと「救われた」であろう。一方、現実的にある、その既にそうであるものに私たちがなっていく途上の生、プロセスはいまだである。だから、分からないところも多くある。「救われた者になっていく」途上。だから、この「すでにといまだの間」の深い緊張の上に立って、私たちの信仰生活がなされていくことはけっして矛盾でもなければ、混乱でもない。むしろ、この緊張関係こそキリスト信仰の持っている本質ではないパルロか。

 

 だからこそ、私たちの信仰生活も、このすでにといまだの間の深い緊張をおさえないととんでもないことになる性質を持っていると思う。なぜなら、既にとらえたと思っていると私たちは傲慢になっていく。また、いまだ、いまだということであると、深い懐疑(疑い、不信仰)に陥ってしまう。すでにといって傲慢になるか確信を持つか、いまだといって懐疑的になるか謙遜になるか。パウロの場合は、謙遜と確信の姿勢で神の国を待ち望む、待望の信仰に励むことを宣言している。

 

 パウロだけではない。私たちにも「既に」という確固たる約束が与えられている。いや、現実的に与えられている。だから、確信があり、喜びがあり、感謝があり平安があるある。しかし、同時にそれは「いまだ」とらえきってはいないという謙遜の姿勢でひたすら神の国を待ち望む、待望の信仰が一方であるわけである。

 だから、私たちは、この神の赦し、神の愛は既に現実のものとして、私たちのもとにある、与えられているという確信を持ちつつ、謙遜な姿勢で神の国を待ち望む者でありたいと切に願うものである。