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神に向かう沈黙

 

2019年8月11日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「神に向かう沈黙」 詩篇62篇2-13節 

 

 詩篇62篇は「個人の信頼の歌」として類別される。「神への信頼」がこの詩の主題である。その「神への信頼」とはどのようなものか。

 

 この詩人は「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう」と言っている。そして、「神に私の救いはある」、6節では「神にのみ、私は希望をおいている」と言って、希望と救いの確信を告白している。それ故に「神こそ、私の岩、私の救い、砦の塔」であり、「私は決して動揺しない」と神を讃美している。

 

 では、なぜこのようにこの詩人は、神の救いと希望を確信し、神を讃美することが出来たのか。このことを考えるにあたって、この詩人のおかれていた立場、状況はどのようであったかを見てみたいと思う。4節以下を見ると、彼は敵とする者たちに取り囲まれているようだ。敵は彼に「襲いかかり」、「亡きものにしようと」たくらみ、そして、「押し倒そう」としている。大変厳しい状況に置かれている。詩人にとって敵は「常に欺こうとして、口先で祝福をし、腹の底で呪う」存在であった。敵である彼らは虚偽の世界に住む者であり、虚偽は真実を憎む、と詩人は言うのである。このように人間はみな虚偽の固まりのようであり、その口で言うところと心の中に思うことはしばしば裏腹なのだというのである。

 

 そのような虚偽の世界にあって、この詩人の魂は神へと向かうのである。それも「沈黙して」。いや、それしか方法がなかったのではないか。このようなことは、この詩人だけのことではない。だれだって、だれにも相談できず、信頼すべき人間もいない状況の中では沈黙するしかないのではないか。この詩人の場合は「沈黙」は神に向かっている。それは、神こそ信頼できるお方であるからである。

 

 その沈黙は神へと向かう。神への沈黙とは、神への信頼と神の言葉を聞こうとする、あるいは受け入れようとする姿勢が前提にある。「魂の神への沈黙」とは「絶対者なる神から与えられるものを平静に、忍耐強く、そして充分に受け入れる、受け入れよう」、そのような姿勢ではないだろうか。

 

 敵に囲まれ、今にも押し倒されようとし、亡きものにされようとしている。そして、虚偽の世界に住む彼らに向かって、この詩人は何をいい、何をすることが出来ただろうか。その時、この詩人は沈黙する。そして、その沈黙は、虚偽に満ち満ちたこの世ではなく、神へと向かうのである。

 

 この詩人はそのような沈黙の中で、神の言葉を聞く。二度までも。神はその沈黙の中で語られる、神は力であり、慈しみの方であることを(1213)。この「慈しみ」(ヘセド)は神の愛を意味する言葉であるが、それは情緒的、感情的なものではない。この「慈しみ」はむしろ意志的なものであり、聖書の基本である契約における「神の愛」を意味している。したがって、それは愛と真実を一つとしたもの、もしくは真実によって貫かれた愛であるということができる。この慈しみにより頼むかぎりは裏切られることはないのである。

 

 このように「沈黙」ということに思いめぐらしていると、どうしても主イエスの沈黙されたところを思い出さずにはおられない。十字架にかかられる直前のところ。一切の業を終えられて十字架の死を待つのみであった主イエスは、ローマの総督ピラトの裁判において、主イエスが「それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。」というところである(マタイ2714)。一切を神に委ねることを決意された主イエスにはピラトの法廷においてただ沈黙あるのみであった。この沈黙の中に、主イエスの父なる神への絶対的な信頼が見られる。その信頼の中身は「神の力」であり「慈しみ」である。さらに「ひとりひとりに、その業に従って、あなたは人間に報いをお与えになる」という神の公平な裁き、取り扱いに信頼していることがうかがえる。だから沈黙されていたのではないか。いや、沈黙することができたのではないか。

 

 この詩人は、虚偽の世界にあって、神に向かってただ沈黙する中で、神を待ち、そこから確かな希望、救いの確信を得ている。沈黙、それは受動、絶対者から与えられるものを平静に、忍耐強く充分に受け入れて、そして、そこからいかなる大敵にも立ち向かう確かな姿勢と豊かな力とをいただくことである(イザヤ3015参照)。

 

こうしてみると、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」ということは、「祈り」であることがわかる。神への祈りである。「どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ」(9)とあるように、神に向かって祈ることが勧められている。そこから、救い、希望の確信が生まれる。祈りこそ信仰の原点であり、中心。日々、沈黙して祈りに努めたい。