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地の塩、世の光

 

2019年7月21日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「地の塩、世の光」 マタイ福音書5章13-16節

 

先日、あるキリスト教学校の懇談会で、「キリスト教学校の校歌の歌詞の中で、一番多く用いられている聖句が『地の塩』『世の光』である」ということを知った。私は、なるほど、そうなんだ、さもありなん、と妙に納得した次第である。

 

この「地の塩、世の光」の聖句はミッションスクールだけではなく、むしろ、教会にこそふさわしいみ言葉ではないだろうか。地の塩としての教会、世の光としての教会。皆さんはどのようなイメージを持たれるだろうか。教会がどのような働きをすればそのような地の塩、世の光としての教会になれるのだろうか。

 

主イエスが山上で語られた、「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」との「教え」の第一のポイントは、「塩」も「光」も私たちの生活にとって必需品であり、なくてはならないものであるということ。「あなたがたは塩や光のように、この世でなくてはならない大切な存在である」と語っている点である。当時、イエスのそばに集まってきた群衆の多くは、名もなく貧しいユダヤの人々で、ローマ帝国の支配、ユダヤ王ヘロデの圧政のもとで、精神的にも経済的にも寄る辺ない生活を強いられた人々だった。それ故、彼らは自分に自信が持てず、だれも自分を認めてくれはしないと思っている人々だった。自己肯定感の少ない人々。そのような人々に主イエスは「あなたがたは塩のようになりなさい」とか「光のようになりなさい」と言ってハッパをかけておられるわけではない。そうではなくて、「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われている。既に「地の塩」であり「世の光」なんだと言っておられるわけである。この世において、この社会においてかけがえのない大切な存在だと言っておられるのだ。これを聞いた人々はどんなに大きな励ましをうけたことだろうか。

 

第二のポイントは、「あなたがたは地の塩である」と同時に「世の光である」と語っておられるということ。二つを切り離しておられないということ。切り離してみると、本来主イエスが語ろうとしている意味が十分には伝わらない。ここで「塩」と「光」の特性について考えてみたい。「塩」は自らの姿を隠し、中に入り込んでいく性質、浸透性があり、「光」は周りをくまなく照らし、存在を広く知らしめる性質、顕現性がある。

 

 ここでイエスの言う「あなたがたは地の塩である」と共に「世の光」であるというメッセージを、私たちの生活、活動の場での人間関係、対人関係に当てはめてみるとどうなるだろうか。もし、私たちが「塩」としての側面だけを強調しようとすれば、人々の交わりに中に溶け込んでいこうとするあまり、自分を押し殺し、主体性をなくしてしまわないだろうか。逆に「光」の持つ特性だけを強調するならば、自己主張が強く、他者と歩調を合わせず、わがまま、放縦に走ってしまうだろう。主イエスは、「塩」と「光」、両者は反対概念であり、地の塩(浸透性)、世の光(顕現性)の両者が緊張関係を保ちつつ、それぞれを生かすバランスの取れた生き方、他者との関係の取り方、そこにこそ成熟した人間の在り方があると言っているのではないだろうか。

 

 それならば、具体的に私たちが「地の塩」「世の光」として生きるとはどんな生き方を指すのだろうか。また教会として、どのような宣教活動をしていけばいいのだろうか。塩味の利いた生き方。周りを明るく照らす光の働き。その働き、生き方こそが、主の栄光を指し示すものであることを覚えて励みたい。