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交わりの回復

 

2019年7月7日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「交わりの回復」 マルコ福音書5章1-20節

 

7節に「かまわないでくれ」、口語訳では「あなたは私となんの係わりがあるのです」とあるが、これは汚れた霊が、よく主イエスに向かって言う言葉である。悪霊は私たちの心に向かっても、主イエスは十字架について死なれたが、それがあなたと何の関わりがあるかとささやく。私たちが十字架の愛をいただいておりながら、心が燃えず、冷ややかな態度をとり、いつも計算して、自分が傷つかない程度にしか主イエスに従っていかないのは、この悪霊のささやきに、心を奪われているからではないか。主がどんなに私たちを愛し、憐れんで下さっているかを感得できなくなってしまっているのである。

 

 村の人々は、正気になった人の様子を見て「恐れた」(15)とある。喜ぶよりも、恐れた。しかも、この恐れは、主イエスを歓迎するよりも、「出て行っていただきたい」と頼み始める反応を引き起こす。一人の人の元気の回復は、だれもが「おめでとう」の言葉を差し向けるに違いない。ところが、そのため豚二千匹の犠牲が伴うことを知るやいなや、人々の反応がガラリと変わる。「あの人のために、そこまでする必要があるのか」と。打算的な損得勘定に毒された、私たちの反応である。

 

 一方、大きな癒しの働きをした相手、主イエスに対しても「これ以上騒ぎをおこさないでもらいたい」という仕方で排除しようとする。他者の回復よりも自らの平穏を大切にしたいとの考えからである。しかし、その平穏は、誰かを「墓場」に住まわせる上で成り立っているものではないか。排除の論理と関係性の喪失である。

 

 『そんなの、関係ねえ』というフレーズが以前はやったが、現代の日本人は自ら関係を絶つことを望むような傾向にある。隣近所の付き合いから始まって、職場、親戚、友だちなど、様々な付き合いをわずらわしいものと思うような傾向がある。そのようにして自ら関係を絶っていくことにより、ますます孤立感を深め、人間不信を増長させ、さらに自分自身をも傷つけていく。最後は自己否定へと陥ってしまう。「だれでもよかった」という殺人容疑者の供述はそのことを物語っているように思う。関係性の喪失の結果起こった悲劇であろう。

 

 様々な痛みや悲しみ、重荷を背負った人々が私たちの間に置かれている。教会が仕えていくには、時間と忍耐が求められる。豚二千匹が死んでしまうような大きな犠牲が伴うことであるかもしれない。しかし、厳しい関係の中に留まりつづけようとされた主イエスに励まされて歩むとき、大きな神の業を見させていただくことができる。私たち一人ひとりは、主の憐れみの証人として、どういうかたちで他者に仕え、関わることが出来るだろうか。それには、まず私たちが礼拝において神としっかりつながることである。私たちは礼拝において力や知恵や忍耐力、勇気、希望、慰め、励ましなど、多くの恵みをいただいて、それぞれの場へとつながりを持つようにと遣わされていく。そして、出会った人と主イエスとの橋渡しのお手伝いをする。この働きに励む一週間となるように。