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信仰の決断

 

2019年6月23日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「信仰の決断」 列王記上18章20-40節

 

私たちの人生は選択の連続である。右に行くか左に行くか。買うか買わないか。やるかやらないか。小さなことから大きなことまで、常に選択している。その決断には、意味があり、理由があり、合理性がある時もあるが、特にない場合もある。みんながしているから、習慣だからとか、親の代からそうしているからとか、何となくとかいう場合もあるだろう。信仰生活の場合はどうだろうか。

 

預言者エリヤにとってバアルの神との戦いは重要な使命であった。時の王アハブは異邦のシドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、彼女の言うままにバアル信仰を受け入れてしまう。そのためイスラエルの民たちの間にもバアル信仰を受け入れる者もいた。バアル信仰とは偶像礼拝であり、ご利益信仰であった。エリヤは人々の間に混乱が生じていることを憂い、イスラエル伝来の信仰を取り戻そうと、バアルの預言者たちとの直接対決を試みた。そして、エリヤは人々に信仰の決断を迫る。バアルか、主なる神か、どちらを信じるのかはっきりせよと。

 

 しばしば何を信じても結局は同じという人がいるが、歩き出していないからそう言える。信仰していない人が言うせりふ。信仰とは一途なもの。信じる道は歩き出した道筋一本しかない。エリヤは、どの道を選ぶかを決定する決め手は、人が働きかけなければ起きない神なのか、人に働きかけてくださるお方であるかを知ることにあると教えている。

 

18章27-29節に「彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった」とある。何も起こらない。あるのはバアルの預言者たちの体の傷と狂ったような叫び声だけ。

 

続いて18章36-37節に「献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。『アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう』」とある。あくまでも神が主権者であり、私たちはその僕である。そこには神への信頼がある。

 

この違いに気づくべきだ。そして、偶像のバアルか、主なる神か、どちらを信じるのかはっきりせよと言う、この選択原理は時代を超えて現代でも十分通用する。

 

 ここで預言者エリヤが迫っていることの理由がもう一つある。それは、中途半端ないい加減な信仰のあり方。信仰は、結局のところ信じるか、信じないかの決断を迫るのだから、万事につけ生ぬるいことを許さない。決着を付けることが求められる。ヨハネの黙示録3章15節に「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」とある。信仰において、あいまいさがあってはならないとする意味。信仰の世界には、あいまいさを断ち切る明快さが必要。

 

 さて、さきほど読んだヨハネの黙示録3章15節の次の16節。「 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」。ここでは私たちの行い、生き方の温度が測られている。いま自分で測って何と答えるだろうか。多くの者が、自分は生ぬるいほうだと答えるだろう。それが正直なところ。しかし、そこで忘れてならないのは、生ぬるいのは、主イエスにとって最も我慢ならないのであって、主が吐き出すような存在になっているということである。なぜ生ぬるいのか。17節にある通り「『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」からである。気づいたら、熱心に努め、悔い改めなければならない。19節の「だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」にある通り。戸口にキリストが立っておられることに気づかないことこそ、生ぬるいままでよしとする姿勢を作っているのではないだろうか。

 

そのような私たちに対して、主イエスは戸口に立って、戸が開かれるのを待っておられる。待っておられるだけではない。18-19節「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする」と言われる。生ぬるい私たちを叱責しつつ、愛をもって迎えてくださるのだ。一緒に食事をしよう、早く戸を開いてくれないか。主はそう言って戸を叩き続けておられるのだ。私たちにも、主イエスが戸を叩く音が聞こえないだろうか。聞こえたら、こう挨拶しよう、こう祈ろう。「初めまして、イエス様。どうぞ私の家にお入り下さい」。