· 

愛は境界線を乗り越える

 

2019年6月16日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「愛は境界線を乗り越える」 マルコによる福音書2章23-3章6節

 

 ユダヤ教では土曜日が安息日。そして、この安息日を守ることがユダヤ人にとってはとても大事なことだった。安息日とは、エジプトでの奴隷状態から解放されたことを想起し、神さまに心を向けて礼拝を捧げる日だ(出エジプト記20816、申命記51215)。ところが、パリサイ派は仕事をしてはならないという言葉にとらわれ、「安息日を守る=仕事をしないこと」になり、いかに仕事をしないかが大事なことになっていた。奴隷状態からの解放を意味していたはずの安息日が、人々を束縛するものになってしまっていた。

 

 弟子たちが麦畑を通っているときに、麦の穂を摘んで食べた。この行為は、旅人などがその場での空腹を一時的に満たす場合には、盗みとしてとがめられることはなかった(申命記232425)。ところが、その日が安息日だったので、この行為が収穫の労働をしたことになるとパリサイ派が責めたのだ。それに対して、主イエスはサムエル記上21章の例を用いて答えられた。ダビデが、サウル王から反逆の疑いをかけられ、家来を連れて逃亡生活をしていた時のこと。ダビデたちが、飢えてパンを求めたのが、お供えのパンを取り替える安息日であった。しかし、アビアタルは、祭司以外に食べてはならないこのパンをダビデたちに与えた。「安息日に仕事をしないということが大事なのではない。安息日は、人々を真の意味で生かす日なのだ。アヒメレクは、安息日を軽んじたのではなく、むしろ、本当の意味で守ったのだ」。それが27節の意味だろう。

 

28節の「人の子」とは、主イエス自身のこと。安息日の本来の祝い方を取り戻すために、主イエスは来られた。そして毎週、私たちを喜びの礼拝へと招いていてくださる。私たちは、主イエスの前で、最も自由になり、安らぐことができる。なぜなら、このお方によって、罪が赦されているからである。

 

 治療行為は労働だから、安息日には禁じられていた。だから、主イエスも安息日の戒めを守ろうとするならば、日が暮れて、安息日が終わってから癒やしを行えば良かった。しかし、主イエスはあえて安息日に癒やしを行った。「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ロマ書1310)とあるように、律法の精神は、神がお創りになった隣人を愛すること。人を愛することのためにこそ律法があるのに、その律法を用いて人を苦しめるのは、神が悲しまれること。律法が重んじられ、律法を守ること自体が目的とされてくると、律法の心はいつの間にか影が薄くなってくるということである。律法が一人歩きを始めるのである。このような律法主義の問題は、伝統主義が本来伝統が生まれたときの瑞々しい精神が失われることがあるという問題にも通じる。

 

主イエスが怒り悲しまれたのは、このことだった。主イエスは律法主義に対してはいささかも妥協することなく徹底的に戦われた。なぜなら、律法主義こそが神の愛を無にしてしまうからである。しかし、この主イエスの態度が、パリサイ派たちとの緊張を生み、やがては十字架へとつながっていくことになった。

 

 私たちは、始めから悪意をもって、誰かを苦しめるということは少ないかもしれない。しかし、自分の正しさを振りかざして、相手を傷つけていることはずいぶん多いのではないかと思う。しかもやっかいなことに、自分は正しいと思っているから、なかなか、この罪には気づかない。しかし、愛のない正しさは、相手を傷つける暴力になるし、たとい、その内容が間違っていなくても、本当の意味では正しくもないのである。なぜなら、愛がなければ一切はむなしいからである(第一コリント1323)。愛のない正しさをふりかざす態度こそが、まさに「かたくなな心」である。自分はかたくなではないといいきれる人がいるだろうか。

 

 しかし、幸いなことに、神はこのような私たちの「かたくなな心」を砕いてくださる。砕いておいて、後は知らないではない。その「打ち砕かれ悔いる心」を神は侮られない。受け入れてくださり、赦してくださるのである。詩篇5119節に、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」とある。

 

これが神の愛、神の恵み。それによって、私たちは神を愛し、隣人を愛する者へと変えられていき、力を受けて、その働きへと押し出されていくのである。その時、私たちは自分中心の、「わたし」という境界線を超えて、隣人へと向かうことができるのである。「愛は境界線を越えるのです」。