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はじめまして

 

2019年6月2日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「はじめまして」 ヨハネの黙示録3章20節

 

年配の方ならよくご存知の『こんにちは 赤ちゃん』という歌。その中に「初めまして 私がママよ」という歌詞がある。「人生は出会いである」とよく言われるが、確かにこの歌のように誕生してすぐ親から「初めまして」と言われて「出会いの人生」が始まるのだ。

 

 「初めまして」。この心踊るあいさつの後に、一体何が起こるのか。それはだれにもわからない。なにしろ、その人と出会うのは初めてなのだから。出会いは、今までのどんな経験も、それによる今後のどんな予測も役に立たない。それが「初めまして」ということなのであり、そして、ひとつ確かなことは、出会ってしまった以上、必ず何かが起こり、何かが変わるということである。それがどんなことであり、どんな意味を持っているのか。ささやかな変化なのか、人生が変わるほどの素晴らしいことなのか。誰も何もわからないままに、私たちは恐る恐る握手の手を差し出す。「始めまして」と。

 

 自分の人生の中での「出会い」、あの人この人との「始めまして」を思い出してみよう。あなたのよきパートナーとの出会い、大の仲良しとなった友だちとの出会いなどなど、人それぞれだろう。会った瞬間、「この人だ!」と直感した、なんていう劇的な巡り合わせの経験をした人もいるだろうが、しかし、普通はどんな出合いだったかも思い出せないほうが多いのではないだろうか。思い出せてもそれは意外なほどさりげないことが多いのではないか。たまたま隣り合わせに座っていたことにあとになってそのことに気づいたとか、共通の友人に紹介されたけど、次に会った時は名前も思い出せなかったとか。多分、私たちは「初めまして」の真の値打ちを知らないので、その貴重な瞬間をたいしたことのない一瞬として見過ごし、忘れてしまうのだろう。

 

 しかし、その何気ない、ささやかな「初めまして」の後に、いったい何が起こったのか、ゆっくり思い出してみよう。きっと、「初めまして」の秘めている底知れぬパワーに圧倒されるはず。しだいに仲良くなり、会う機会が増え、互いの理解も深まり、いくつかの決定的な出来事で信頼関係を築き、やがてかけがえのない人になっていく。助け、助けられ、ぶつかり合い、ゆるし合い、同じ釜の飯を食べ、多くの同じ苦しみを背負い、たくさんの同じ時間を生きて、遂には、なくてはならない大切な人となる。もしあの時、あなたに出会えなかったら!あの日、あの場所での、あなたとの「初めまして」がなかったなら!そういう決定的な出会いが必ず一つや二つあるだろう。

 

 いやそうではなく、人間関係に疲れ果て、もうだれにも会いたくない、という人もいるだろう。傷つけられ、裏切られ、もうだれも信じたくないという人もいるかもしれない。でも、実はそんな人こそ、「初めまして」を必要としているのである。なぜなら、その人は、人生において真にかけがえのない出会いをまだ経験したことがない、ということなのだから。経験していないのに、あきらめてしまうことはない。「人生は出会い」。さりげない、しかし決定的な「初めまして」は、思いがけないとき、思いもよらないところで待っている。もしかしたら、それは明日かもしれない。『明日があるさ』(青島幸男作詞、中村八大作曲)と大きな声で歌ってみよう。また、『風と共に去りぬ』の主人公スカーレット・オハラの名セリフ、「明日は明日の風が吹く」と言ってみよう。今どんな苦境にあっても、明日になれば、物事はいい方向に転じるものであるという、前向きの希望をもって。

 

 さて、聖書にもこうある。主イエスは言われる。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録320)。さあ、戸を開けよう。そして、こうあいさつしよう、こう祈ろう。「初めまして、イエス様。どうぞ私の家にお入り下さい」。きっと、その人は、人生において真にかけがいのない出会いを経験することだろう。

 

いま、こう挨拶しよう、こう祈ろうとおすすめしたが、「祈る」とは心を開いてイエス様をお迎えすることだからである。だが、最初に私たちの祈りというものが、イエス様を動かすのではないことを覚えたいと思う。そうではなくて、イエス様が私たちを動かして祈らせて下さるのである。まずはじめ、イエス様が私たちの心の扉をたたかれるのである。イエス様が、私たちの心の中に入りたいと知らせてくださるのである。「見よ、私は戸口に立って、たたいている」のである。私たちの祈りは、いつも、イエス様が私たちの心をたたいてくださったことの結果である。

 

イエス様は、私たちの心の扉をたたき、私たちが祈りによって扉を開き、すでに用意されている祝福を受けるように招いて下さっているのである。そして、イエス様は静かに私たちの心に入り、よい働きをしてくださるのである。このことをたとえて「私たちと共に食事をする」と言っておられる。共に食事をするということは親密な楽しい交わりをするということ。このことは、神様が人との親密な楽しい交わりを望んでおられることを示している。なんという恵みだろう。

 

さあ、心の戸を開けよう。そして、こうあいさつしよう、こう祈ろう。「初めまして、イエス様。どうぞ私の家にお入り下さい」。