· 

あなたにとってガリラヤとは

 

2019年5月19日 逗子第一教会 主日礼拝宣教   杉野省治

 

「あなたにとってガリラヤとは」 マルコによる福音書1章14ー20節

 

 ヨハネは旧約聖書の最後の預言者である。その預言者が捕らえられたということは、旧約の時代が終ったことを意味している。実際の歴史的事実としては、主イエスの活動時期とヨハネの活動時期がどのように重なっているのか福音書によって違いがあるため、議論のあるところだが、マルコ福音書では、両者の交代は鮮やかにはっきりと描かれている。新しい時代の到来として、主イエスが登場してくる。

 

 主イエスの登場から、すべてが始まったと言えるだろう。主イエスはガリラヤに行かれる。ガリラヤは主イエスの故郷であり、宣教を開始した場所である。私の人生にイエスが登場するのも、私のガリラヤにおいてである。そこで主イエスが登場し、しかも復活した主として現れてくださるのである。では、自分の人生のいったいどこが、ガリラヤだったのだろうか。自分にとってのガリラヤとは?そこで主イエスと出合い、イエスに従っていくことが出来る出発点であり、絶えず戻ってくる場所。原点ともいえるもの。

 

 さて、シモンとペテロにとってのガリラヤとはどのようなものだったのだろうか。この二人は漁師で、ガリラヤ湖で魚をとって生計を立てていた。漁師は当時の庶民のありふれた職業の一つ。これをメタファー(比喩)として読むならば、ユダヤの民にとって、山は神の住む世界である。例えば、シナイ山でモーセは十戒を受け、タボール山で主イエスはご変容された。また主イエスは山の上で教えを述べられた(山上の垂訓)。それに対して、海は世俗悪の世界を象徴している。例えば、レビヤタンという怪獣は海に住んでいる。それは基本的にユダヤ人が陸の民で、海の民ではなかったからだと言われている(日本人は海の民なので、発想は少し違うが)。この二人が漁師だったということは、世俗の世界に関わっていた人間のあり方を象徴している。つまり、私たちが毎日の生活で、お金儲けに忙しく働いたり、あのことこのことで何かと心を煩わせている生活そのものを意味している。主イエスが湖のほとりを歩いておられるとは、神自らが私たちの人間の世界に関わってくださることを意味している。だからこそ、神の国が私たちに近づいているのである(1415)

 

 注意すべきは、人間が神の国の方に行くのではない。逆である。主イエスが人間の方に来てくださるのである。神の国の方が勝手に私たちの方に来てくださるのである。極端に言えば、探し求める必要は何もない。ただ向こうから来ているものに気づくだけでよい。日本人の宗教観と大いに食い違う点がここかもしれない。日本人の宗教心の原点は求道心であり、道を求める者がそれを見つけていくことだろう。発心して仏門に入るというのが普通である。座禅でもお稽古ごとでも、まず道を求めるものが門をたたいて、師匠に入門が許される。聖書の世界は逆。まず、神が人間を求めている。神の国が向こうから来る。主イエスが私たちの方に歩いてくるのである。生活のただ中に、そして、突然に。ということは何の準備も用意もなく。ということは無条件で神さまの方から来てくださるのである。

 

 主イエスは彼らに声をかける。主イエスがかけた言葉は「わたしについて来なさい」である。私たちも確かに同様の呼び声を聞いた。いつ、どこで、どのような状況の中で主の呼びかけを聞いたか、気づいたかは、人それぞれだろう。多くの方からそのような体験の証しを聞くことがある。それらはすべてユニークな体験であり、祈りの最中のこともあれば、賛美しているときもある。喜びの体験の中の出来事だったということもあり、悲しくつらい最中に、あるいは散歩をしているときになどなど。

 

 では、主イエスについていくとは、どういうことだろうか。「人間をとる漁師」になることだと主イエスは言われる。今までは魚という世俗のできことに関わる生活だったが、そこから人間相手の仕事へ。愛に方向付けられた生き方へ。神の国の広がりを手伝う仕事へと向かっていくのだ。ただ世俗的な繁栄を求める生き方から、神の国の繁栄を求める生き方へ。それには主イエスが人間に近づかれたように、私たちも人間に向かっていく生き方へとシフトしていくように呼ばれている。言い換えて言うならば、自分中心に何事も考え行動している生き方から、他者に向かって、そして他者と共に生きていく生き方へと変わっていくことである。私たちキリスト者の生き方は基本的に他者へと向かっていく生き方である。それが宣教の働きとして用いられていくのである。