私がイメージしている教会像について箇条書き的にお話して、これからの逗子第一教会の教会形成の参考になればと思う。
一つ目。どこの教会堂も十字架を高く掲げている。それは何のためか。ここは教会だよ、という目印、広告塔の役目なのか。もちろんそれもある。しかし、それだけではない。一番大切な神から教会に託された使命、「福音宣教」をこの世に対して大胆に証していく、その姿勢の表れにほかならない。それは「世の光」としての教会である。しっかり、はっきり掲げよう。
二つ目。建物(教会堂)が伝道するとよく言われる。しかし、また「現代の教会が成功しない理由の一つ」をバークレー(英国の神学者、牧師)は次のように言っている。「われわれが教会を教会の建物と同一視しているところにある」(W・バークレー『希望と信頼に生きる』)。そこで、「われわれに勇気と人を惹きつける力がありさえすれば、どんな場所でも教会とすることができるのだ」(同書)とも言っている。教会に集う者たちの立ち居振る舞いが伝道推進に重要なポイントとなる。だから、主によく訓練される群れ、教会。
三つ目。十字架の旗は内に秘めながら、この世に地域に隣人に徹底的に仕える教会。一握りの少数であっても地域になくてはならない「地の塩」としての教会である。
四つ目。「開かれた教会」のために私たちに何ができるか考えよう。ただ扉が開かれているから「開かれた教会」なのではなく、どんな人とも「共にどう生きるか」を具体的に提示できる教会が「開かれた教会」なのではないか。多国籍の人が、若い人たちが、あるいは子どもたちが、障害を持った方々があまり来ないから、何もしない、考えない、ではなく、何もしない、何も考えないから来ないのではないか。自己閉塞から風通しのよい教会。
五つ目。神学者バルトやボンヘッファー(欧州の二十世紀の神学者)たちがよく使った言葉に「世のためにある教会、他者のための教会」というのがある。教会というのは、教会のことを一生懸命やると教会のためだけになる、それは危険だよというのだ。なぜなら、教会の頭(かしら)は十字架の主イエス・キリストであるからだ。そのキリストは己を捨てて、己の十字架を背負って、そして十字架に死なれた。それは何のためかというと、この世の罪人である人間の救いのためである。それなのに、教会員は教会のために一所懸命やって、世のためということを忘れてしまう傾向がある。そのような姿勢に対しての指摘である。
最後、六つ目。京都・東本願寺のスローガンに「バラバラでいっしょ/差異をみとめる世界の発見」というのがある。このスローガンに一貫するのは、排除と同化とは無縁の考え方である。「ひとつになっていっしょ」でもなく、「ひとつといってバラバラ」でもない教会。「バラバラでいっしょ」。十人十色、違いは豊かさ。それを味わい楽み、恵みとして感謝して受け入れよう。そして主にあって、共に生きる教会。
以上の箇条書きの教会像に低通しているのは、「神の愛」。この神の愛ゆえにこそ、私たちは赦され、生かされている。その神の愛に応える教会形成を考えたとき、以上のような教会像が与えられた。
これがすべてだとか、これが一番いいというのではない。いろいろな教会像があり、教会というところは多面的な働きをするところであるということである。でもその中心はイエス・キリスト、それだけは忘れないで、そこに集中し、そこから拡散していく働きと言ったらいいだろうか。
さて、今日の聖書の箇所を見てみよう。「バラバラでいっしょ」の不思議な光景ではないだろうか。使徒言行録によれば、激しい風が吹く音が聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たちがいろいろな言葉で話すのを聞いて、人々は驚きとまどったとある。1節を見ると「一同が一つになって集まっていると」とある。これは「いっしょ」。3節は「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。「それぞれバラバラに」である。4節は「一同は聖霊に満たされ」これ「いっしょ」、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。これ「バラバラ」現象。まさに「バラバラでいっしょ」である。バラバラの私たちが聖霊に導かれて、新生讃美歌6番にあるように、「主の名によりて集いしわれら」である。主イエスを信ずる信仰よって集いしわれら、なのである。そしてそれぞれ与えられた賜物によって主に仕え、隣人に仕えるのである。そのことを互いに喜び、感謝して歩みたいと思う。