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私の愛する子

 

2019年4月28日 逗子第一教会   主日礼拝宣教   杉野省治

 

「私の愛する子」 マルコによる福音書1章1ー13節

 

 マルコ福音書の書き出しの1章1節には「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれている。これは父なる神からの一方的な恵みによって、神の子であるイエスがこの世に来られて、その生涯にわたって御言葉と御業、とりわけその十字架と復活の出来事においてなされた救いのメッセージをこれから書きますよ、ということだ。だから、このマルコ福音書の表題、あるいは題名だといってもよい。

 

 マルコはこの1章1節を書いたのち、2節からいきなりイエスの公生涯の記述から始めている。他の福音書にある誕生物語はない。2節から13節だが、ここには主イエスを救い主(キリスト)ということを確証する三つの出来事が記されている。

 

 一つは2節から8節で、「先駆者としてのバプテスマのヨハネの出現、登場」である。当時の人々は救い主が現れるときには、その備えをするためにかつての預言者エリアが再び現れると考えていた。そこで、そのエリアがあのバプテスマのヨハネだというわけだ。ヨハネの服装(6節「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」)は旧約聖書に出てくるエリアの姿(列王紀下1・8「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」)を当時のユダヤ人たちに思い起こさせる。そして、その後すぐにイエスが登場する。だから、このイエスこそ「あの救い主」だということになる。

 

 二つ目は9節から11節の「バプテスマの時の神の声」。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(10~11節)とある。「天」とは神の住まわれる所、その天から父なる神がご自分と地上のイエスが一つであることを示されたわけだ。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御言葉は、イエスが誰であるか、どんな方であるかをよく表している。同時に、父なる神ご自身がイエスのバプテスマを喜んでおられる。さらに、そのことが神のご意志であることを宣言なさっておられるのだ。天が開かれること、神の声、聖霊の降ることはイエスが終末の時の救いをもたらす者であることを示している。特に天からの声は「神の子」としてのイエスの身分を宣言する。イエスは終末の時の救いをもたらすキリスト(救い主)、神の子にほかならないと宣言している。

 

 三つ目は12節~13節で、「荒野でのサタンに対する勝利」。13節に「サタンの試みにあわれた」とある。そして、すぐその後に「そして獣もそこにいたが、み使いたちはイエスに仕えていた」とある。この御言葉はサタンに勝利したことを示している。獣たちとの平和的な同居は、来るべき終末の時には獣は人間に害を加えず、従うであろうということを意味する。さらに、当時のユダヤの人々は「荒野」は終末の救いが現れる場所とも考えていたので、今やイエスの到来とともに、この終末の救いの時に対する待望が荒野において実現すると言いたいわけだ。このようにここでもイエスが救い主として到来し、サタンに勝利する者として描かれている。

 

 以上三つの出来事をみてきたが、マルコはこの三つの出来事だけを書いて、イエスが神の子、キリスト(救い主)であるということをイエスの全生涯のプロローグとして、この箇所を書いている。私たちは今朝、このプロローグを通して、私たち人間が天に昇るのではなくて、神の方から、それも一方的にイエス・キリストを通して、私たち人間の所に降りてこられたということ。さらに、神が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけられた、そのイエスが神の子・キリストであるというマルコの信仰告白が私たちに何を一番物語っているかを聞きたいと思う。それは、神がまず私たち罪ある人間を受け入れ、愛して下さっているということ。そして、そのことをご自身の愛する独り子イエスを私たちに、この歴史のただ中においてお遣わしになったということ、神の方から、それも一方的にイエス・キリストを通して、私たち人間の所に降りてこられたということである。このメッセージこそ、福音、よい知らせなのではないだろうか。「愛することは、降りてゆく行為」であるということ。   

 

 この「愛するとは、降りていく行為である」という言葉は、20世紀の神学者、思想家のP・ティリッヒが著した『ソーシャルワークの哲学』という書物に書かれている。この言葉に学生時代に触発された向むかい谷や地ち生いく良よしさん(北海道医療大学教授)はソーシャルワーカーであり、クリスチャンだが、彼がリーダーとなって立て上げた精神障がいを持つ人々が共同生活する「べてるの家」という施設が北海道浦河にある。この「べてるの家」の理念の一つが「降りてゆく生き方」である。この理念のもと向谷地さんは今日までソーシャルワーカーとして、「降りてゆく実践」をされている。 

 

 「あなたは私の愛する子」。このメッセージに込められている私たちに対する神の愛に応えて、「愛することは降りてゆく行為」「降りてゆく生き方」に励みたいと思う。あなたにとって「降りていく行為」「降りてゆく生き方」とは何か。思いをめぐらし、祈りつつ考えてみてほしい。きっと神から、具体的にこうすることだよ、とそれぞれにふさわしい「降りていく行為」「降りてゆく生き方」が示されると思う。その愛の行為に励みたい。