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イースター礼拝宣教 「主イエスは生きておられる」

2019年4月21日 逗子第一教会 イースター礼拝宣教  杉野省治

「主イエスは生きておられる」 ルカによる福音書24章13ー35節

 

 主イエスの復活の日の午後、二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かって歩いていた。歩きながら話し合い、論じあっていた。それは主イエスのことであり、主が十字架にかけられ、殺されてしまったことについてである。そこに「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(15節)。二人には、しかしそれが復活の主イエスだとは分からなかった。「論じ合っているその話はなんのことですか」(17節)と問われて、二人は「暗い顔」(17節)をして立ち止まった。

 

 エマオについた時、二人は主イエスのことが分からないままに「一緒にお泊まりください」と引き止めている。「そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」。それは主イエスと分からず、その見知らぬ旅人の身を案じた言葉とも受け取れるし、夕方になり日も傾くという心細さから、「無理に引き止めた」とも受け取れる。「無理に引きとめた」というのは、引き止めた二人の気持ちの表れだったのではないか。なぜなら、この二人の弟子は、イエスこそイスラエルを解放してくださると望みをかけて、一切を置いてイエスに従ってきたのに、今、そのイエスを失い、彼ら自身の心の状態が、夕暮れに途方にくれてたたずむほかない状態ではなかったかと思われるからである。さらに彼ら自身が気づいていないもう一つの深い理由があった。彼らは、女性たちが「イエスは生きておられる」と告げられたと聞かされ、イエスの墓に遺体がなかったと聞かされたのだ。しかしそれが理解できなかった。要するに彼らには「イエスが分からなかった」のだ。それがこの二人の途方にくれた状態の根本原因だった。

 

 二人は、それと知らぬ間に主イエスが近づき「論じ合っている話は何のことか」と問われたとき、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存知なかったのですか」と言った。しかしその実、本当のことが分からなかったのはこの二人の弟子たちの方だったのだ。彼らの失意や挫折も、あるいは不安も、あてどのない人生も、気落ちした状態も、復活し、生きておられるイエスが分からなかったということに原因があった。

 

 途方にくれていた二人の弟子たちが、共に歩み、共に泊まってくださる方が主イエスだと分かったのは、食事の席の時だったと記されている。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」(30,31節)とある。この二人の弟子は、かつてイエスの食事に招かれ、何度もその仕草を知り、その祈りを聞いてきたことだろう。エマオのその夕べにも家の主人のすることを主イエスはされた。主イエスは「アッバ、父よ」「我らの父よ」と祈られる。パンを取り、祈り、裂いて、わたされる。その時、「二人の目が開け、イエスだと分かった」のだ。しかし、「その姿は見えなくなった」(31節)とある。

 

 主イエスと共に歩んでいたときは「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(16節)。その人物は見えていたのに、その人が復活した主イエスは分からなかった。そして今度、食事の時、「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)。今度は復活の主イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった、というのである。

 

 その違いはどこから来るのだろうか。最初は「目は遮られて」とあり、後では「目が開け」とある。この「目」とはなにを指すのだろうか。心の目といったらよいだろうか、霊的な目というべきだろうか、信仰の目とでも言えるだろうか、その目が遮られていると、復活の主イエスだと分からない。信仰の目が開けると、復活の主イエスだと分かる。主イエスの復活の出来事はそういうことではないか。

 

 預言者エレミヤは次のように語っている。「愚かで、心ない民よ、これを聞け。目があっても、見えず/耳があっても、聞こえない民」(エレミヤ書5:21)。また主イエスご自身もイザヤの預言を用いて、次のように言われた。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない」(マタイ13:14-15)。

 

 姿は見えなくなっても、主イエスが生きておられ、共に歩み、共に泊まってくださる、その事実に変わりはない。すべてはエルサレムからエマオに向かう途中、主イエス御自身が近づいて来て一緒に歩き始められたことから始まった。二人の弟子がまだ知らなかったとき、大事なことは主イエスが共に歩まれることから始まっていたのだ。何と言う慰めだろう。

 

 では、どうしたら「イエスは生きておられ、共に歩み、共に泊まってくださる」と分かるだろうか。そのために主イエスは御言葉を解き明かしてくださった。「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)とある。二人の弟子は語っている。「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)と。そのときにはすぐには気づかなかった。しかし、あとから思い返して、あの時御言葉を聞いて心は燃えていたというのだ。それは決して熱狂的な激しい感情の高ぶりではなく、持続的で確かな燃焼があったのだ。生きることを慰められ、支えられる経験があり、深いところの喜びがあったのだ。御言葉を聞いて心は燃えていた。そしてそのことが、主と共に食事をした時に「目が開け、イエスだと分かった」のだ。私たちも「ああ、そうか」「ああ、そうなんだ」と、目からうろこがおちて、気づかされるときがある。まず、主イエスが一方的に近づいてこられ、御言葉が語られ、その御言葉が心の中で燃焼していくうちに、ある時に「ああ、そうか」となる。これらすべて聖霊の導きである。聖霊の導きを祈ろう。