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わたしの愛にとどまりまさい

2019年4月14日 主日礼拝 杉野省治牧師

「わたしの愛にとどまりまさい」ヨハネによる福音書15章1~10節

 

 教会にとって、また私たちキリスト者一人ひとりにとって何が一番重要なことだろうか?特に今、この時代の教会にとって何が重要だろうか?伝道か?確かに日本における伝道は大変厳しく、キリスト者が人口の1%にも満たない現実があり、そして少子高齢化と共に、教会に青少年が少なくなり、次世代への信仰の継承が心配されている。だから伝道は急務だ。

 

 しかし今朝の聖書によって主イエスが私たちに語ってくださっている御言葉は、実は本当に重要なことはもう一つ奥にある、伝道の根本にさらに重要なことがあると語っておられる。それは何か?

 

 ここには確かに「実を結ぶ」ということが言われている。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5節)というのである。「実を結ぶ」とは何か?

 

 それはその人がキリスト者として霊の賜物を与えられ、「霊の実を結ぶ」ことだと理解することもできる。ガラテヤ書5章22節に「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とある通りである。しかしヨハネ福音書のこの箇所ではむしろ伝道のことを言い、人々を神の恵みの下に集めることを「実を結ぶ」と言っていると理解すべきだと思われる。同じヨハネ福音書12章24節には「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われている。「多くの実を結ぶ」というのは、神の民の多くの人の回復が意味されていると思われるからである。また、今朝の御言葉の直後にある15章16節に「あなたがたが出かけて行って実を結び」とあるのは、明らかに伝道を意味している。だから、ここで「豊かに実を結ぶ」と書かれているのは、やはり「伝道の実を結ぶ」ことと理解していいと思う。それがまた、「父の栄光」(8節)になると言われている。父なる神はまさにそのために「ぶどうの木」を植えたのである。それが主イエス・キリストである。

 

 しかしそれにしても、今朝の主イエスの御言葉の中には、「あなたがたは実を結べ」と命令している箇所は一つもない。自分で伝道せよという命令はない。むしろ「自分では実を結ぶことはできない」(4節)とある。伝道は大切。それこそ神の栄光を表すことだ。しかし聖書はそれぞれの人の伝道を真っ先に、あるいはそれだけ取り上げて命じていない。そうではなく、「わたしにつながっていなさい」(4節)と言われるのである。そして主イエスは「わたしもあなたがたにつながっている」(4節)と言われる。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5節)と言われるのである。その時、「実り豊かな働き」が生まれるのである。

 

 最も重要なことは何だろうか?伝道することだろうか?それはそうだが、そこには重要さの順序がある。今朝の御言葉はその前に、「キリストにつながっている」ことが重要なのだと言うのである。

 

 それではキリストにつながるには、どうしたらよいのだろうか?今朝の聖書の箇所に、「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」(7節)とある。「いつもある」というのは「とどまる」という言葉である。「つながっている」と同じ言葉が使われている。主の御言葉が私たちの内にとどまっているならば、私たちはキリストとつながっているのである。今朝、御言葉は「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(4節)、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)とある。この御言葉が私たちのうちにとどまるようにしたいと思う。「あなたがたは私の枝だ」と言ってくださるのは主の愛である。「わたしの愛にとどまりなさい」(9節)とある通りである。この言葉には、主の赦しがある。この御言葉を私たちの内にとどめよう。そして木から枝へ樹液が流れるように、流れてくるキリストご自身の命に生かされるようにしよう。

 

 そしてキリストにつながっている恵みを心から感謝して、常にキリストにつながり、実を結ぶものとされたいと思う。日々、御言葉をいただいて、御言葉につながり、御言葉に立つ。そこから伝道が始まるのである。